ハタチたち by.Concent

Case 02

「ゲッツ!の黄色い人」を続けるピン芸人
ダンディ坂野の「20年」

2016/01/06
「ゲッツ!」で一躍人気者となった、芸人ダンディ坂野さん。しかし2003年のブーム以降、世間から「一発屋芸人」と呼ばれてきた。だがいまだに彼をテレビなどのメディアで拝見することは多い。芸風を変えず、「ゲッツ!」を続けたダンディ坂野さんの20年を聞く。

芸人「ダンディ坂野」が生まれた日

― 「ダンディ坂野」はどのようにして生まれたのでしょうか

20年前の1996年、僕はお笑いの養成所にいました。石川から上京してきた時にはすでに26歳。養成所にいる20歳前後の若い子とコンビを組むのがなかなかキツかったので結局ピン芸人として活動し始めました。当時、コンビ芸人たちのライブはよくあったんですが、ピン芸人のライブは少なかったんです。

そういうピン芸人たちを活かす数少ないお笑いライブで、僕が彼らをいじるMCをやったんですよ。その時に生まれたのが、「ダンディ坂野」というアメリカンコメディーショーの司会みたいなキャラクターだったんです。

― 「ダンディ坂野」はMCのキャラクターとして生まれたんですね

そうなんです。その時は今のような黄色いスーツではなく、当時唯一持っていたダブルのスーツでした。そのスーツに今と同じような色の蝶ネクタイをして、アメリカンなスタイルでやり始めたのが元々のきっかけですね。言ってしまえば一夜限りのキャラクターのつもりが、なんだか非常にウケてしまい、「ダンディ坂野」を20年続けることになるんです(笑)

― すでに現在のようなキャラクターだったんですか?

そうですね、ピン芸人たちを「これからみんなにとっておきのコメディーをみせるから期待してろよ〜腹抱えて笑うんじゃね〜ぞ〜」ってオーバーに紹介してみたり、芸人がスベってしまった場合は「オッケ〜! センキュ〜ッ! センキュ〜ソ〜マァ〜ッチ! どうだった? 僕が今まで見た中で一番腹を抱えて笑う出来だったよ!」なんてフォローして。もはや芸人のネタではなく、僕のアメリカンなノリがウケてしまった形にはなりましたが(笑)

で、そんなライブを結局、2・3ヶ月に1回ほどやるようになったんです。なかなか評判は良かったんですけど、当時の「ダンディ坂野」は、結局「ピン芸人」という素材を滑稽に持ち上げてはじめて活きるキャラクターなんですよね。その後この「ダンディ坂野」を生かして何かやろうかってなったんですけど、なかなかネタができないんです。やっぱりそこに素材がないので。

1年2年くらいはアメリカンなノリで、「やあ、みんなどうもこんにちは〜」って漫談をやっていたんですけど、ある時ハッと思い出したんです。僕レンタルビデオ屋さんで働いていたことがありまして。エディマーフィーなんかがすごく人気だったんですね。何かの拍子にエディマーフィーを思い出して、「もっともっとアメリカンなキャラクターにしよう!」って。早速アメリカンジョーク集みたいな本を買ってきて、そこからヒントを得て、日本式にアレンジしたらどうなるのかと模索しました。

「面白いのに全然オンエアされない芸人」

― 「ダンディ坂野」というキャラクターが形成されていくなか、世間の評判はどうでしたか

ネタそのものよりも、アメリカンなキャラクターが先行していましたからね。ぽんぽんネタを作っていたのは最初だけで、だんだんと行き詰まっていきました。その行き詰まりが顕著に現れたのが、NHKの「爆笑オンエアバトル」という番組です。

【爆笑オンエアバトル】
1999年〜2010年までNHK総合テレビで放送されていたお笑い番組。放送開始当時、全国ネットで放送されていた数少ない「ネタ見せ番組」であった。
芸人たちが観客100人の前でネタを見せ、面白いと評価された芸人のみがオンエアされるという「史上最もシビアなお笑い番組」として有名であり、数々の芸人たちがこの番組からブレイクした。

オンエアバトルには幸運にも第一回目から参加させてもらいました。最初の頃は4回出していただいて、3回オンエア。なかなかの好成績でした。でもそこから5連敗して。結局、トータルでいうと23戦7勝という成績です。まあそんな成績でも出していただけるというのはありがたいことですが……。

― オンエアされる率が低くなってきた時に、キャラ変更は考えなかった?

キャラ変更は考えませんでしたね。そこはネタで頑張らなきゃと。正直、ツッコミとボケがいるコンビ芸人に比べ、ピン芸人って票が入りづらいなあっていうのが、僕の持論でした(笑)でも、それを言うと負けなんだろうなって。

ピン芸人でもオンエア率が高い同期もいましたからね。もう、がんがんしゃべるんですよ。すごいスピードで。彼に比べると僕なんか文字にしたら2行くらいのものを30秒かけてやるっていうスタイルだったので(笑)まあ今となっては、それはそれでいいのかなと思いますけどね(笑)

で、オンエアバトルではなかなかオンエアされない時期もありましたけど、当時のプロデューサーさんやディレクターさんからの反響が多かったんです。「面白いのに全然オンエアされない芸人」って。

― オンエアされないことにより、スタッフさんたちに興味を持ってもらえたと

そうですね。これだけ負けているのによく呼んでもらえたと思います。業界内で、割と「知る人ぞ知る」みたいなキャラになっていたようです(笑)で、その後マツモトキヨシさんのコマーシャルの話が来るんです。

「あ、あの人お笑いの人だ。ゲッツ!の人だ」

そのコマーシャル、非常に反響がよかったんです。コマーシャルの制作さんもとてもよくしてくれまして。コマーシャル用にスーツ用意しましょうと、企業のイメージカラーが黄色だったので、黄色のスーツを用意してくれたんです。

― ダンディ坂野さんの黄色いスーツはこのCMによって生まれたんですね

オンエアバトルの視聴者はやはりお笑い好きな人が多いですが、コマーシャルに出演したことで多くの人が僕を知ってくれるようになりました。「あ、あの人お笑いの人だ。ゲッツ! の人だ」って。また、当時「内村プロデュース」という番組にも呼んでいただいたこともあって、年末・お正月といろいろ出させていただきました。

でもお正月明けてからそんなに反響がなかったんですよ。さすがにつぶやきシローさんみたいな感じにはならないのかな……と思っていた矢先、「めちゃイケ」に出していただきまして。これがものすごい反響があって、そこからは毎週のように「めちゃイケ」「内村プロデュース」に出演させてもらえました。これが2003年のことですね。

― この2003年のブームの時、人気が下降していくのでは、と不安になりませんでしたか

2003年の夏くらいから、「お前もう人気ないよ」くらいのことは言われましたからね。お笑いが好きで初めて、やっと人気が出たそばからそんなこと言われて、正直いい気はしませんでしたよ。でも、きっとそうなるし、なるようにしか物事はいかないだろうな〜と。当時、それなりに年齢もいっていましたし、悟っていたんですよ。

― ブームが落ち着いてきて、心境の変化はありましたか

一時期、あまりにも「一発屋」と言われすぎてへこみそうな時はありましたけど、3年くらい経って、「こっち側」が増えてくる安心感に気づいたんです。

― こっち側?

毎年のようにレジェンドが現れるんです。サングラスして腰振ってる人とか、ギター持ってる侍、小太りでキレてない人とかいっぱい現れて。だんだんこっち側に溢れてくるんですよ(笑)ああ、もはやそういう時代なんだなと思って。

― 同じ境遇の仲間が増えてきたわけですね(笑)

そうなってくると、こっちはこっちの立場でひと笑いできるんです。自虐じゃないですけど、そういうものの楽しみ方ができてきたんですね。HGさんも言っていましたけど、「我々の芸は伝統芸能だと思ってくれ」と(笑)。おかげさまで、100人いたら90人くらいは「あぁ、ゲッツの人だ」と世間の方に知ってもらえましたから。何も不満はないです。ありがたいことですよ。

なんだかんだ「仕事してるな〜」って

― しかし、いまだにコマーシャルでダンディ坂野さんを目にする機会は多いです

そう、なんだかんだ自分としても「仕事してるな〜」っていう(笑)コマーシャルのお仕事は相変わらず多いですね。僕のキャラ的には「明日から一週間仕事ないよ」の方がいいと思うんですけど、実際にそんな状況だったら「この人本当にかわいそうだな……」と思われちゃいますからね。

「あなたはなんだかんだ明るくめげずに元気よくやってるね」ってキャラクターでいたいと思っています。2003年のあの時からいろいろ言われましたけど、今もこうやって楽しくやらせてもらっているので、自分の中では今の方がノッてる感がありますね。

― 「ダンディ坂野」の全盛期は2003年ではない?

少なくとも今の方が「ダンディ坂野」らしいというか。当時無名だった芸人の「俺はやるぜ!」っていうものと「どうもお待たせしました。みなさん。知ってますか? 知ってますよね?」っていう空気はちょっと違いますよね。

「ゲッツの黄色いダンディ坂野」。それ以上でもそれ以下でもない。もうあえて奇をてらわないし、あえてなにか難しいことをやるってこともないですね。みんなが求める「ダンディ坂野」を一所懸命に全うするという感じです。

― あいつに負けたくないとか、過去の自分に負けたくないとか、ライバル心みたいなものはないですか

オンエアバトルの時はやっぱりオンエアされたいなと頑張っていましたが、その一方で、「まあオンエアされなくてもそれはそれでいいかな」という風にも考えていました。僕なんかは、たまに見るから良いんですよ。これは僕のさじ加減です。常にテレビに出ていちゃいけない。番組でMCやって、レギュラーとしてひな壇にいる、みたいな芸人ではないですからね。なんかBSでロケやってるな〜とか、あれNHKでなんかやってるとか。そういうキャラクターでこの先もがんばっていきたいなと。

「ゲッツやる黄色い人は、変わっちゃいけない」という持論

― 「ダンディ坂野」の10年後、20年後を聞きたいです

おそらく、今とほぼ変わってない気がしますね。僕はこう見えて割と、変にストイックなところがあるんです。一時期露出がぐっと減った時に、急激に太ってしまったんですね。すると久々に会った共演者の方に「あれ、ダンディくん太った?」って言われて。これはショックでした。それを機にダイエットをして、かつての体重に戻しました。戻したのが6年くらい前です。そこからずっとキープしています。

というのも、僕は80年代のアイドルが大好きなんです。田原俊彦さんとかやっぱりスリムであの頃と体型が変わらないし、踊りもキレキレだなあって。アイドルと芸人の違いはありますけど、やっぱり「変わらない」って大事なことなんだと思います。「ゲッツやる黄色い人は、変わっちゃいけない」という、これは僕なりの結論です。もちろん年齢とともに髪は薄くなってきますし、シワも増えますけどね。でも「おっさん、キレてるね〜今日も」「変わんないね、ハツラツとして」って言われ続けたいです。

― 最後に、今年ハタチになる方へメッセージをお願いします

「続ける」ということは大切なことではあるんですが、あまり長く続けるってことにとらわれずに、楽しんでいれば20年間続くものが見つかるんではないでしょうか。僕もデビューした時に「ようし、ゲッツを20年続けるぞ!」なんて決めてなかったですし(笑)瞬間、瞬間で求められるものを返していったら20年経っていたんです。だから、ハタチの人たちもおそらく「気がつけば20年やっていたな」なんてものが今後見つかるんだと思いますよ。

このインタビューに答えた人

ダンディ坂野(だんでぃさかの)

1967年1月16日石川県生まれ。2003年にドラッグストア『マツモトキヨシ』のCMに出演し、“ゲッツ!”のネタでブレーク。その後も元祖「一発屋芸人」として活躍する。2012年のCM起用社数ランキングでは男性タレント部門で6位にランクイン。起用社数は8社で、お笑い芸人としては最高本数を獲得している。

オフィシャルブログ『ゲッツ!1回50円』
http://ameblo.jp/dandy-sakano/

[ライター、カメラマン/小岩井ハナ+酒井栄太(Concent)]

いろんなハタチ