ハタチたち by.Concent

Case 03

神戸の避難所で生まれた、人と人をつなぐチンドン
ソウル・フラワー・モノノケ・サミット
中川敬の「20年」

2016/01/06
ロックバンド、ソウル・フラワー・ユニオンが主軸となり結成されたソウル・フラワー・モノノケ・サミット。チンドン楽団のスタイルで民謡やはやり唄を歌う彼らのファースト・アルバム『アジール・チンドン』がリリースされてから今年で20年だ。そのボーカルをつとめる、中川敬さんにこの20年についてお話を聞いた。
※この記事は阪神淡路大震災の当時の被災地写真を含みます

一度避難所でやってみたら、なにか分かるんじゃないか

― そもそも、ソウル・フラワー・モノノケ・サミット(以下モノノケ・サミット)が結成されたきっかけを教えてください

モノノケ・サミット結成のきっかけは、95年の1月17日に起きた阪神淡路大震災。震災が起こってすぐに、ソウル・フラワー・ユニオン(以下SFU)のメンバーの伊丹英子が「避難所のお年寄りに娯楽が必要な時期が絶対に来るから、歌いに行かへん?」って言い始めて。当然のことながら、「そんな大変な場所に演奏なんてしに行っていいのか?」と心配するメンバーもいたけど、まあとりあえずやってみようと。一度避難所でやってみたら、なにか分かるんじゃないかって。

当時、SFUのメンバーは全員被災地に近い大阪に住んでいて、全員で動くことが容易だった。他の音楽活動をしているメンバーがいたら、あそこまでマメに避難所を回るのは不可能やったやろうね。あの数年間で、通算200ヶ所以上の避難所や仮設住宅、復興住宅で被災地出前ライブをやることになった。

震災直後の神戸の町(神戸市長田区)写真提供:神戸市

― 震災発生からどれくらいで活動を開始されたのですか?

震災の一週間後、1月末ぐらいからテレビや新聞に取り上げられるボランティアの連絡先をチェックして、「ロックバンドなんですが、民謡や戦前のはやり歌などを演奏出来るので、避難所でお年寄りが娯楽を必要とする時期が来たら、是非呼んでください」という感じで、まず連絡を取り始めたんよね。

基本的に、こちら側からゲリラ的に歌いに行くことはしなかった。音楽を聞ける精神状態じゃない人もいたと思うし、無理矢理押し付けるものでもないからね。ボランティアたちがライブのセッティングをしてくれて、俺らは呼ばれて行くというスタイルを徹底させた。で、2月5日くらいかな、電話ががんがん鳴り始めた。「是非うちの避難所に来てほしい」っていう連絡がね。

避難所という空間は、プライバシーがない空間だから、ある程度の時期を過ぎると、ささいなことでケンカになったりする。「なんとかこの場の空気を変えることが出来ないか」って、現場のみんなが思い始めた時期やったんよね。

当時の避難所の様子(神戸市中央区)写真提供:神戸市

― 避難所ではどのような音楽を演奏していたんですか?

オリジナル曲はほとんどやらないで、避難所の多数を占めるお年寄りの、みんなが知っている民謡や戦前のはやり唄を中心に演奏してた。自分たちなりのコード進行や曲構成、アレンジにしてね。

― ロックバンドが民謡を……?

たとえば仮設住宅で、俺らが演奏する民謡を聴き終わった後、おばあちゃんがひとりで部屋に戻って行く時、その日に俺らが演奏した民謡をそのおばあちゃんがふと口ずさんでしまう。そんな状況を作れたら、それでいいんじゃないかと思ったんよね。それだけで、俺らのやっていることには意味があるんじゃないかって。平時なら臭い言い方に思えるやろうけど、「心に唄を」やね。ガチでそこにテーマを置いていた。

だから自分たちのオリジナル曲をやることには興味がなかった。避難所で演奏したオリジナル曲は『満月の夕(ゆうべ)』ぐらいかも。この曲は阪神淡路大震災がきっかけで作った曲やったから、色んなところでリクエストされた。

【満月の夕(まんげつのゆうべ)】
1995年、長田区の出前ライブにて生まれた中川氏作詞作曲の楽曲。阪神淡路大震災の惨状、復興への希望、それらに向き合おうとする被災地の人々の姿が歌い込まれている。「満月の夕」というタイトルは1月17日震災当日の夜に満月がのぼっていたことから。

この活動をわざわざ言語化する必要はないな、と思ってん

― はじめての避難所ライブはどうでしたか?

はじめての被災地出前ライブは2月10日。倒壊が一番ひどかった灘区の、避難所になっていた青陽東養護学校で演奏した。50人ぐらいの人が集まってて。至るところ、ライフラインが復旧してなかったから、PAを使わずに生音で演奏したんやけど、かなり盛り上がって。内心、俺らの下手くそな民謡でこんなに盛り上がってええんかなとは思ったけど(笑)。沖縄民謡の「安里屋ユンタ」が大合唱になってね。

― はじめての避難所での演奏、緊張はしなかったんですか?

到着した時、全員に緊張感があったから、緊張をほぐすために校庭の水飲み場の横でリハーサルをまずやった。「籠の鳥」を演ってる時に、ひとりの酔っ払いのおっちゃんがふらふらっと俺に近づいて来て、三線を弾いてる俺の手を握って揺らしながら、「楽団ってええなぁ、音楽ってええなぁ」って、目に涙をためて、笑いながら言う。

咄嗟に俺の口から出た言葉が「演奏中やぞ、おっさん!」(笑)。で、「おうっ、わるいわるい!」(笑)。お互いが笑い合う空間が出来たんよね。なんか、その瞬間に、俺の中にあった緊張感が一気にほどけたのを覚えてるな。ほんま、その後の活動歴を思うと、あのおっちゃんに感謝やね。「相手が被災者であろうが、人間同士の付き合いとして演奏をすればいい」っていう、シンプルな気持ちにさせてもらった。

あと、その日にはもうひとつ忘れられない逸話があって。ライヴ後、さっきまで泣いていたであろう顔をしたおばちゃんが笑いながら近づいて来て、「兄ちゃん、ありがとうな。兄ちゃんの歌った『アリラン』で、私、やっと泣けたわ。私な、今回の震災で子供も旦那も家も、全部亡くしたんや。ひとりになってもうた。でも、みんな同じ境遇やから、ずっとボランティアをやってて、泣くことを忘れててん。あんたの歌う『アリラン』でやっと泣けたわ。ほんま、ありがとうな」って、俺の背中を思いっきり叩いて笑うわけ。そのおばちゃんにもほんま感謝やね。その後の「音楽人・中川敬」を作ってくれた人たちやね。

― 避難所ライブを続けていこうと思ったんですね

ライブ後にみんなでミーティングして、「この活動を続けてみようか」と。当時は若かったから、なんか偽善的に見られるのが嫌やったりとか、いわば、明快な理由みたいなものが欲しかったようなところもあったんやけど、もはやこの活動をわざわざ言語化する必要はないな、と思った。慰問のために音楽をしに行くとか、被災者を応援するとか、そういう意味づけが不要になった。単にそこに音楽があって、人と人との付き合いをしに行く。それでええんやと。そこからは2~3日おきに神戸へ演奏しに行くようになる。

1995年7月、神戸・長田での出前ライブ

1998年、大阪・釜ヶ崎にて

― その後、この活動を5年も続けられたそうですね

まあ、今度こっちが困ったときは逆に助けてな、っていうような感覚。「お前ら、演奏しに来てくれてありがとうな!」とか言われたら、「いやいや、今度俺が困ったらおっちゃんが助けなあかんわけや(笑)」とか、そんな感じやったね(笑)。困った時はお互いさまっていう。

ああ、これはアジールやな

― リリースから20周年を迎えるアルバム『アジール・チンドン』の発売にいたるまでのエピソードを教えてください

まず、阪神淡路大震災がきっかけで作った「満月の夕」をシングルで出そうっていうことになった。で、カップリング曲に「復興節」という曲をレコーディングしたんやけど、発売禁止になってしまって。「復興節」は大正から昭和初期にかけて活躍した演歌師・添田さつきが関東大震災のときに書いた曲なんやけど、震災の歌にも関わらず、笑い飛ばすような明るいタイプの曲やったから、不謹慎に思われるかもしれないっていう理由で、当時のレコード会社の検閲部が懸念してね。ほんま、馬鹿らしい話やけど。

で、色々話し合った結果、インディーズ(自主制作)でなら出していいということになった。基本的にメジャー・レーベルと契約してるミュージシャンはインディーズでCDをリリースすることは出来なかったんやけど、特例として「OK」が出た形になった。二つのバンドの作品を、メジャーとインディーズと、切り分けて出せる状況になったわけ。禍を転じて福と為すやね(笑)。で、96年の10月にブッキングしてたSFUのワンマンを、急遽モノノケ・サミットのレコーディング・ライブに変えて、その日録音したものと「復興節」を混ぜて、『アジール・チンドン』が誕生するということになった。

― なぜこれらの曲をアルバムにしようと思ったんでしょうか

いろんな避難所で演奏する中で、おばあちゃんたちに「あんたたちのテープとかないの? 毎日聴きたいわ」ってよく言われててね。「いやCDは一応出してんねんけど、俺らのCD、オリジナルでロックばっかりやしな……」っていうようなやり取りが多かったから、これはモノノケ・サミットの作品もちゃんと出すべきやなっていうのもあったんよね。

― アルバム・タイトル『アジール・チンドン』の由来は?

避難所や仮設住宅で演奏活動を続けている中で、ある種の治外法権というか、法の枠外で音楽が鳴ってる感覚があったんよね。人間と音楽だけが存在してる感覚。ああ、これはアジール(自由な領域)やなと。国家や法から外れたところで鳴るチンドン・ミュージック。それが由来。

客席から白いものがいっぱい見えんねん

― モノノケ・サミットの活動の中で辛いと思ったことは?

うーん、「辛い」はなかったな。ただ、1999年頃の段階になると、「満月の夕」がある種の名曲扱いされていることに気付き始めてね。書いた当初は、ええ曲やとは思ってたけど、たくさんある新曲のうちの一曲っていう感じでもあった。それが、もしかしてこの曲はみんなにとっても自分にとっても特別な曲なのかもしれないっていう意識が俺の中にも芽生え始めた。震災から3~4年経った頃やね。あの曲が始まると客席の暗がりの中から白いものがいっぱい見えるんよね。

― 白いもの?

みんながハンカチを取り出す。演奏中に、家族を亡くした人たちが、すごい泣き方をする。こっちは舞台で演奏する立場にあるから、もらい泣きとか出来ない。その姿を見ながら演奏するのが辛い時期はあったね。

― モノノケ・サミット結成時は、ここまで続くと想像されていましたか?

まったく思ってなかった。というか、まさか自分が50歳になるとも思っていなかった(笑)。国内外のモノノケ・サミットの活動を通して、どこで演奏してもそこにいるのは人間なんや、ちょぼちょぼの人間なんやという考えに至ったのは大きいね。音楽で人と素敵な時間を一緒に作るっていうことにおいて、そこがどこであろうが一緒やなって。

― 音楽を始めた頃の自分に会えたなら、今ならなんと声をかけますか?

「そのままやれ!」(笑)。「おう、自信満々やな、中川敬。何も気にせずにそのままの自分を貫き通せ!」(笑)。かける言葉は何もないよ。そのままやればいいわけやから。保険も何もない世界やけど、艱難辛苦も全部財産になるから、信じる道を行け、ということ。自分が一番やりたいことがなんなのかを見つけたのなら、とことんやれ、やね。

― 自信が折れた時期は?

大げさなのはない(笑)。まあ、バンドや音楽制作っていわば集団作業やから、面倒臭いことも多々あるけど、それも徐々に年中行事やと思えるようになる(笑)。集団で何かをするっていうことは、こういうことやなって。

― モノノケ・サミットの今後の展望を教えてください

モノノケ・サミットの存在によって、「私もそういう活動をやってみたい」っていう人が増えたと思う。プロアマ問わずに、地べたに音楽の「場」を作る。モノノケ・サミットはこれからももちろんやっていくけど、世界中が「モノノケ・サミットだらけ」になったらいいなって思うね。

しんどいこともいずれはネタになる!(笑)

― 最後に、新成人へのメッセージをお願いします

自分のやりたいことを見つけて、本当にやりたいことだとわかったら、とことんその道を突き進んでほしい。しんどいこともあるやろうけど、後には全部ネタになる!(笑)。それはもう間違いなくネタになります。淀まず、一ヶ所に沈殿することなく前に進んで行くこと。「旅をせよ!」やね。

あと、「人」や「場」と積極的に出会うこと。無数のさりげない出会いから、答えが見つかったりもする。まあ、しんどいこともいずれはネタになる!これが本日の一番重要なポイントでございます(笑)。

(左:中川敬 右:SFUギター・高木克)

このインタビューに答えた人

中川敬(なかがわたかし)

1966年3月29日生まれ、兵庫県西宮市出身のミュージシャン。ミクスチャー・ロックバンドであるニューエスト・モデルを経て、1993年にソウル・フラワー・ユニオンを結成。ヴォーカル、ギター、三線を担当する。1995年、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットを結成し、被災地での出前ライヴ活動を開始。2011年には初のアコースティック・ソロアルバム『街道筋の着地しないブルース』をリリース。現在はソロ活動にも力を入れている。

HP:http://www.breast.co.jp/soulflower/
Facebookコミュニティページ:https://www.facebook.com/soulflowerunion
公式Twitter:@soulflowerunion
文中写真提供:ウエノヨシノリ、神戸市

[ライター、カメラマン/小岩井ハナ+酒井栄太(Concent)]

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