ハタチたち by.Concent

Case 04

災害に備えて生まれたラジオ局が直面した、東日本大震災
FMいわきの「20年」

2016/01/06
福島県いわき市。「SEA WAVE FMいわき」の愛称で慕われるコミュニティ放送局も、今年で開局20年となる。ラジオからその声が聞こえるだけで元気になる、名物パーソナリティのベティさんと、社長の渡辺弘さんに「いわきの声」を聞きました。
※この記事は東日本大震災の当時の津波写真を含みます

「有事の際は市民の命を救うため」というFMいわきのDNA

― 設立のきっかけを教えてください

元々コミュニティ放送局を作ろうかと思ってはいたのですが、1995年の1月17日に起きた阪神淡路大震災がきっかけでその必然性を確信しました。
震災から6ヶ月が経とうとしている1995年の7月に、神戸市の長田区にある「エフエムわいわい」というコミュニティ放送局に行きました。すると、その放送局では避難所や物資などの生活情報を6ヶ国語で放送していたんです。その光景を目の当たりにして、「コミュニティ放送の原点はここだ!」と思いました。

それまでコミュニティ放送は「若者の文化」というイメージがあったので、震災時に活躍するということは全く意識していませんでしたが……正確な情報を素早く伝えることで、救える命があるんだと気付いたんです。

「市民といつも一緒」「市民に役立つための放送を」「有事の際は市民の命を救うため」というFMいわきのDNAは、20年前のこの瞬間に出来ました。

開局前日の祈祷のようす

― コミュニティ放送局には、大きなマスメディアではカバーしきれないローカルな情報が集まりますもんね

「今日の当直のお医者さんは誰?」とか「あそこに新しくオープンしたお店のパスタが美味しいよ!」とか。そういう生活に直結した市民の「かわらばん」になることが私達の使命なんです。きちんとした情報を伝えることが、かわらばんの仕事。最も大事なことは「市民に直結していること」ですからね。

1996年9月1日、防災の日に開局した

― ベティさんは開局当時からパーソナリティをされていたんですか?

FMいわきの準備局時代からお手伝いをしていたので、そちらも合わせると、もう22年間関わらせていただいてます。

今は結婚して家族を持ち、この地に根付いていますが……開局当時は東京に住み、アナウンスの勉強をしていました。月に2回くらい東京からいわきに通っていました。3週間分の収録をして、バスで東京に帰るという生活(笑)

ほんと、大変だったと思うの。でも普通は挫折するところを、この人はへこたれないでやってくれていた。後々絶対すごい仕事をするなって思っていたよ。だからベティさんは3.11の震災が起きても動揺しなかった。

いわき市中之作の港に到達した津波(2011年3月11日16時2分)

「やっと本来の仕事が出来るんだ」

― 「有事の際は市民の命を救うため」と開局してから15年、それが現実に起こったのですね

地震の発生当時は、スタジオから近いところで遅めのお昼ご飯を食べていました。揺れが収まってからスタジオに向かって……それからは2ヶ月間帰らずにラジオの放送をしていました。長いこと、このスタジオで暮らしていました。

震災が発生してからの2ヶ月間は、臨時災害放送局として活動して来たんです。パーソナリティとミキサー、原稿を作るデスクの3人1組で3パーティ作り、8時間交代で24時間放送……それを2ヶ月続けました。この会社はこういう時のために作ったんだから、逃げ出すことは出来ない。

私は開局前からこの放送局に関わっていましたし、立ち上げの趣旨も理解していました。この放送局は有事の際は市民の役に立つために立ち上げられたものだから「やっと本来の仕事が出来るんだ」ということも、実感していました。

― 震災発生直後はどのような放送をされていたんですか?

大津波警報が発令されているという放送の後は、安否確認の放送をしました。
「〜さんを探してください」という電話が放送局にたくさんあったんです。迷い猫や迷い犬を探していますという放送は普段からしているけど、それと同じことを出来る状態ではありませんでした。
しかし、探すことは出来ないけど「私は生きてます」という声だったら放送できる。「私はここにいるよ」「私は生きていますよ」という方法で、安否確認の放送を始めました。
個人だけでなく、施設ごとの情報もたくさん寄せられました。そしてそれを聞いて「自分も生きているということを伝えよう」という人が増えていったんです。

津波により破壊された港(いわき市小名浜2011年3月撮影)

みんな、誰かに何かを言いたかった。

― どうやって膨大な生活情報を集めたのですか

スタッフ9名と私、10人では情報を収集しきれるわけがなかった。でもそんな中情報を寄せてくれたのは、市民の方々だったんです。スタジオまで来てくれたり、電話やメール、Twitter、あらゆる手段を使って「あの店舗はまだ営業しているよ」とか「ここの銀行は何曜日には営業するよ」と、生活に直結した情報を送ってきてくれました。FMいわきがこれまで市民と繋がっていたから出来たことです。

放送する情報もどんどん変わっていきましたね。安否確認の情報に始まり、避難所や施設からのSOSも放送しました。その後はライフラインの復旧情報から、救援物資の情報、膨大な量の行政情報。生活情報は最も長期に渡って放送しましたね。

給水のため並ぶ人々(いわき市泉町2011年3月撮影)

あの頃は、とにかくいろんな電話がかかってきました。どこにぶつけたら良いのか分からない怒りの電話、「放送してくれてありがとう」って感謝の電話。怒りと感謝の繰り返しです。
印象に残っているのは、新興住宅街に住んでいるおばぁちゃんからの電話かな。住宅街だからお店も近くにないし、周りの人たちが避難していて、ひとりぼっちになっていたの。「もう私、明日死ぬわ。1人じゃ水も汲みに行けないし」「じゃあ私が行って来るよ!住所教えてよ!」って言ったら「なんだかそれだけで元気になったわ。もういいわ」って電話を切られたりね(笑)みんなね、「言いたかった」の。誰かに何かを言いたかったの。

「泊まっていきなよ。ここで寝てみ。気持ちがわかるから」

― 生活情報の提供以外にどんなことをしましたか

避難所に取材も行きました。私も被災者なので気持ちが分かる分、この取材にはとても時間がかかるんです。行ってすぐにマイクは向けられない。行って仲良くなって、「私、ラジオやってるんだけどさ、話聞いてもいいかな?」って聞くの。多分今だったら断られると思うんだけど、当時はみんな言いたいことがたまっていたから「いいよ」って受けてくれた。そしてお互いに号泣。化粧はぐちゃぐちゃになって帰って来たなぁ。

でも、「あんた、泊まっていきなよ。ここで寝てみ。この体育館で。私たちの気持ち、もっとわかるよ」って強く言われたこともありました。この意見には、「確かに」って素直に思いました。

― どうやって気持ちを保っていましたか?

いつも見られるところにリスナーさんからの感謝や応援の言葉を掲げて、元気の源にしていたかな。
送られて来たメールをプリントアウトして、仕事部屋に全部貼ったんです。疲れた時はそれを見て「よし、頑張ろう!」って。リスナーさんの言葉とスタッフの明るさに助けられて、8時間も放送できたんだろうなと思います。長い時間心を込めて放送すると神経はすり減るんですけどね。
2ヶ月間毎日8時間喋り続けたから、口の中が血の味がしたの。どこかが切れていたんだろうね。

「ベティちゃんがこんな声で言うなら、これは逃げなきゃって思ったんだ」

― ベティさんの思うラジオの役目とは

ラジオってケガを治してあげることも、実際に助けてあげることも出来ない。けど「ここにいるからね」って発信できる、寄り添えるメディアだなって思います。

震災当時、偉い人の言う言葉が全て信じられなくなって、色んなデマも出回りました。偉い人が言っていることよりも、隣のおばちゃんが言っていることの方を信用してしまう。まさに震災時の心理状態なんですけどね。そういったものに左右されてしまう人たちのためにも、ちゃんとした情報を放送したいって思いました。

― 「言葉」への想いは震災の前後で変わりましたか?

心が全て乗ってしまうのが言葉であり、声なんだと思います。家族とケンカした後に放送に挑むことが、どんなに恐ろしいことか(笑)全てがそこに出てしまいます。心と体は本当につながっているんだなと、言葉を通して実感させられますね。

アナウンス教室でも「言葉を読むだけではダメ。言葉を読める人はたくさんいる。私達の仕事は、言葉を伝えること。伝えたかどうかが一番大事」と話をしています。
大津波警報発令の話をした時は、ずっと心の中で念じていました。「伝われ、伝われ、伝われ……」って。この情報が届いてほしい人に絶対伝われという思いで、念じるように放送していました。

普段はバラエティ番組で楽しくお話ししている私が、すごく真剣な声で「逃げて!」ってくり返し放送したから「ベティちゃんがこんな声で言うなら、これは逃げなきゃって思ったんだ」「あの時ベティちゃんがあんなおっかない声で言ってなかったら、俺は普通に海に行ってたよ」といった声をリスナーさんから何度も聞いたので、言葉には言霊があるんだと実感しました。魂が乗って、届くんです。

進化しないでいいものってあるんじゃないかなって思っていて、それがラジオかなって

― 今後の展望をお聞かせください

たくさんの人たちに参加してもらえるラジオ局を目指しています。前を向いて、進んで行こうと思えるようなラジオ局。「いわきでひとつに」をスローガンに、今出来る事を精一杯皆で取り組んでいきたいです。

今後も寄り添えるメディアを続けていこうと思っています。子供達に「私ラジオで喋っているんだよ」って言うと「ラジオってテレビ?」って聞かれるんですよ。そのくらいラジオって今の子達には浸透していないんです。インターネットも進化していますしね。でも、進化しないでいいものってあるんじゃないかなって思っていて、それがラジオかなって。ずっと続けていかなきゃなって思います。
あとは、後輩への指導ですかね。しっかりこのメディアを繋いでいけるように教えていきたいなと思います。

― 今年ハタチになる新成人に一言お願いします

私の座右の銘は「笑う角には福来る」。どうせ同じことをやるなら楽しめ!と言いたいです。
いやいややっても、楽しんでも、同じ時間なので。
あとは「気の持ちよう」って言葉も好きです。何でも気の持ちようだって乗り切っております!(笑)

若い人達には旺盛な「知的好奇心」を持って欲しいと思います。知的好奇心をもとにたくさん刺激を受けて、色んなことに果敢に挑戦して行って欲しい。楽しむことも、苦しむことも同じくらいに大事なこと。その経験は必ず後の活力になります。

FMいわきについて

【株式会社いわき市民コミュニティ放送(SEA WAVE FMいわき)】

1996年9月1日開局。10名の社員と、35名のパーソナリティ、技術スタッフで運営。(平成27年12月現在)
周波数76.2MHzに乗せ、いわき市民の「かわらばん」となるべく放送している。2011年3月11日の東日本大震災発生からは、2ヶ月間臨時災害放送局としても活動し、多くの市民の情報源となった。

[ライター、カメラマン/小岩井ハナ+酒井栄太(Concent)]

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